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『煉獄回廊』削除部分 54章

『煉獄回廊』削除部分 54章

 「乗ったで。いつや」
 日置高志はテリーの煙管に指を突きつけた。
 出発はその日の夜だということだった。
 詳細を聞くにつれて、かれの甘い幻想は階段を一段ずつ降りるようにゆっくりと下降していった。早い話にいい話はあるわけがない。マイクロバスでひたすら北上して、舞鶴あたりで場所を捜して決まったときが開始時間。一日で屋外シーンをすべて早撮りしてしまうと、夜には戻ってくるという強行軍だ。宿泊費を浮かしているわけだから、睡眠をとれそうなのは、マイクロバスで仮眠する時間より他にない。飯だってつくかどうか保証はなかった。引き受けたことを後悔するような話になったけれど、今さら逃げだすのは考えものだった。
 どうせ聞いたこともない弱小プロダクションだと思ったが、テリーの口からは、けっこうその業界ではビッグな監督の名前が出てきた。独立プロのいわゆるピンク映画のなかでは、巨匠といわれる一人だ。そいつの映画に出してもらえるのなら金はいらんというやつは、わんさといる。
 「ほんまけ」
 「話や。話。じっさい見てちごうたら、ごめんやで」
 テリーの返答はげっそりさせるものだった。
 これでギャラも出るか出ないか未定だということがわかった。
 行ってみなければ、かつがれているのかどうか確かめようがない。東京で活動している高松プロがわざわざ京都経由で日本海岸にロケしにくるという話が、まず第一に嘘くさかった。海のシーンが欲しければ、隣の県にいくらでも撮影できるところがある。
 その点を、テリーは、わしの連れで元高松プロで助監督やっていた坊田いうのんがおって、と説明した。そいつが京都に移って心機一転、商売を始めるので、プロダクションの連中が激励をかねてやってきた。飲んでいるうちに、ついでに屋外ロケに必要なシーンを撮ってしまおうと急きょ決まった。予定外のエキストラはこっちで調達することになって、声がかかってきたらしい。
 「ほら、あいつや。坊ちんや。木屋町でスナックやっとるあの男や。おまえも会うたことあるやないけ」
 煙管をふりまわして、何度もいわれると、そういえば、坊ちんという男に会ったこともあるような気がした。日置高志は、テリーの話のアラを見つけるのが面倒になって生返事した。ほうか。信じたるよ。
 「わし、少し寝とくわ」
 ソファに移って横になろうとすると、トウちゃんが向こうから怒鳴った
 「こら、白人びいきの人種差別主義者は、いね。出ていかんかい」
 まだ怒っているらしい。高松は有名人だが、顔を見たことがないから、本人だというふれこみなら疑いようがない、と思っているうちに眠りに引きこまれた。

 季節外れの海辺は、硬く、容赦ない寒さにひびわれていた。一行は十数人だった。正確に数えるのは面倒だし、かれの仕事でもない。吹きっさらしのところに立っていると、わりの合わないバイトだと痛感した。深夜の道路工事の仕事のほうが、冷たい風にあてられないだけ、身体に優しかったが、これはまともに自然の猛威だ。潮風は重たい湿気を帯びていて着衣を突き通してくる。コットンのボア付きジャケットでは防寒の用をなさないばかりか、湿り気を吸ってしまう。
 濡れ場シーンの連続を頭では期待していたが、濡れたのはてめえの上着だった。こんなところで裸になったって鳥肌が映るだけで絵にならないだろう。常連スタッフとエキストラの区別もさいしょはつかなかった。監督の高松は、脂ぎった顔と粗暴な言葉使いとぎらぎらした身振りとで、他を圧していた。巷間のイメージとぴったりなので、たぶん本人に間違いないだろう。もっとも、この業界では似たようなやつが監督を勤めるようだから、そっくりな別人なのかもしれない。
 海辺でどれだけのフィルムを回して、どれだけのシーンを収める予定があるのか知る由もないから、その分だけ時間を際限なく感じる。どれだけ済んで、どれだけ残っているかわからないのは、どうも落ち着かない。忍耐力を試されるのは辛かった。先ず命じられた仕事は、焚き火をするための木くず探しだった。鼻をすすりながら燃えそうなものを探して砂浜を歩いていると、これは、日雇いでやった「片付け」よりも惨めだと思った。片付けは、職人たちに細かく注文をつけられて嫌気がさしてくるけれど、仕事の進行状況の見当はだいたいつく。ロケの雑用係では、仕事の終わりはいっこうに見えてこないのだった。
 エキストラとしてのシーンもいくつかは撮った。テストを何度も繰り返させられる。四、五人で浜辺を走ったり、主演級のやつを取り囲んだりする場面だった。そのたびに監督は――高松かあるいは高松に似た男のことだが――口汚く罵った。
 「てめえら、生きてる人間の面しろよな。生きてる人間の、よぉ。土左衛門がミイラになって墓場から迷い出てきたみてえな面こいてんじゃねえよ、ったく」
 寒さで顔がこわばっているし、飯も食べていないのだから仕方がない、とはだれも反論しなかった。何回も走ったりしているうちに身体も暖まってきて、顔にも生気がよみがえってくると、やっとオーケーが出てフィルムが回された。
 午後になって、少し陽がさして大気に温もりが感じられてきた。冷めきった弁当だったが、いちおうは昼食も出された。そろそろ撮影の峠もこしたと感じられたころだった。スタッフの女の一人と監督とが、とげとげしい口論をはじめた。出番はなく、演出助手のようにずっと監督の横についていた女だ。頬骨が張って険のある目つきだが、角度によっては可愛く見えた。進行の仕方で議論しているのかと思ったら、カメラマンは近くで二人をアップ撮りしている。テストもなしに、監督自らが出演者となってアドリブ・シーンが開始されたのだろうか。他の人間は指示もないので、自然とそれを遠巻きにする恰好になる。
 口論といっても、一方的に女がまくしたてている。近づくとその内容も耳に入ってきた。男は十のうち一ついいかえすくらいだが、論争に負けている気配はなかった。アケミ、いったれー。とだれかが声をかける。
 監督が発しているのは一つの同じ言葉だけだった。
 「脱げ、馬鹿野郎」
 次にいうと、語順が逆になって「馬鹿野郎、脱げ」だ。そして「馬鹿野郎、脱げ」が、次には「脱げ、馬鹿野郎」に交代する。よく聞いていると、交互にそれを使い分けているだけなのだ。
 ボキャブラリーが極端に少ないのか、信念が度外れて強固なのか。きっと両方なのだ。聞いていて阿呆らしいその単語も、この監督の口を通すと、不思議と人間まるごとの迫力を帯びていた。
 アケミがまくしたてているところへ、監督が力をこめて平手打ちをくわせた。寒さは痛覚をいっそう鋭くする。短い髪の毛が乱れ、一瞬だけ女は硬直したように黙ったが、次の瞬間にはたちまち、前にも増した勢いで監督の横暴なやり口への非難が活火山の溶岩のように噴出してきた。
 監督は無言で腕を一振りした。腕は空気をはらっただけだが、宙を浮いている言葉のがらくたを一蹴する身振りのつもりだったかもしれない。そしてアケミの顔を今度は往復でずんずんと張って、藁人形のように突き飛ばした。ふっ飛んだ身体をいともかんたんに組み敷いてしまった。カメラは少しさがって、二人の全身を俯瞰ぎみにとらえている。やはり本編に使うシーンで、ここからよくある強姦場面のはじまりになるのだろうか。
 下になったアケミの紺色のパンタロンのフロント・ボタンとジッパーを、監督が慣れた手つきであける。女はそれに抗わずに、少し腰を浮かすようにひねった。抵抗する気なら足をばたばた撥ねるところだが、女は首と腕をくねらせて形ばかりのいやいやをするだけで、あっさりとパンタロンを剥がされてしまった。下穿きは中年女がはくような白い木綿だった。こんなもっさりしたパンティをはいているのを恥じて、こいつは抵抗したのかもしれない。
 下着をなかば脱がされかけたとき、アケミは咆哮をあげて監督の耳に激しく噛みついた。歯が耳たぶの柔らかい部分に食いこむ音が聞こえるほどの激しさだった。勢いをゆるめずに噛みつづけたので、血が流れだした。女の目は狩りで追われた雌鹿のようにおののいていたけれど、監督はまったく動じなかった。むしろ痛みと流血を自らで受けて楽しんでいる様子もある。先に戦況に耐えられなくなったのは女のほうだ。噛みちぎりそうな歯の感触と血の味に驚いたように、ぱくんと口を離してしまう。吠えるように監督は笑って、途中まで降ろされていた下着をつるりと女の足から引き抜いた。傷も血も気にするふうもなくさっと立ちあがった。ジーパンの前が黒々とした勃起に突っ張っている。
 そして、ぐるりを取り巻いて固唾をのんでいた全員をゆっくりと見まわした。息がはずんでいる。
 「だれかいねえか。志願しろ。突っこんでやれ」
 監督の猟犬のような熱を帯びた視線が一人ひとりを吟味する。日置高志に止まった目はすぐに軽蔑の色に染まって、となりに移った。横にはテリーがいた。監督のまなざしがテリーに定まって、そしてパドックの競争馬を吟味するように上下した。
 「立つか。おまえ」
 「……そんなん、無理や思うで」
 「はは、うしろ向け」
 従順に背を向けたテリーの尻を、監督は一撫でして、いった。
 「おまえだ。いいケツしてる。おまえいけ」
 テリーはごくりと喉を鳴らした。迷いはあったが、断りのできない状況は了解済みだっただろう。
 どことなく操り人形のようにふらふらと、テリーは、腰から下をむきだして横たわっているアケミに近づく。だが、そこから先どうしていいかわからずに、指示をあおぐように監督を見た。
 「男は自分で脱ぐんだよ」
 だれかがいった。テリーは素直にうなずいて、ズボンとブリーフを脱ぎ捨てて、下半身を露出させた。靴下と短ブーツだけになった姿は滑稽でも、尻の曲線は、監督の見立て通り、恰好がよかった。性器はでかいが、しなびた白瓜のようにだらんとして、生気がまるでなかった。テリーは、あおむけになって、かすかにふるえて空を見ている女におおいかぶさっていった。
 カメラが回りだした。
 アケミの恥毛は薄くて貧弱だった。足が立て膝にひろげられて、男を受け入れるかたちばかりの体勢をとる。ふくらみをみせた外陰部も寒そうに口を閉じていて、波形の一本線の割れ目しか見えない。この場で、男を狂わせるような充血と潤いにあふれることはないだろう。
 生気のない男根とぴったり閉じた女陰を使って、二人はいつわりの性行為を開始する。カメラが見おろす。監督はそのまわりを跳ねまわって短い言葉を発する。やれ。行け。そこだ。絞めろ。突け。こねくれ。くわえろ。離すな。奥だよ。奥だ。奥奥奥。……子供の歓声と変わりなかった。アケミはそれでも、苦痛と屈辱に耐え、だんだんと快楽の波にさらわれそうになる、という型通りのプロセスを表情だけで表わそうと必死にはげんだ。来るんだよ。もうじきだ。来る。もう。そうだ。来た来た来た……。そのうち女は苦痛も快楽もポーズのうちに区別がつかなくなって、わけのわからない悲鳴をあげると、手足を冬眠しそこねたこおろぎみたいにふるわせた。
 テリーはじっと耐え抜くマラソン選手の顔つきで、ただ空しく腰を振りつづけていた。額にはうっすらと汗さえ浮かぶ。本人の意志には関わりなく、漬け物にした白瓜のような男根が振り子のように揺れる。先っぽがときどき地面の柔らかい砂に穴を掘った。こいつ、砂浜とやってる男や――。あとでからかってやろうと、日置高志は笑いをこらえて想った。

 いくつかのシーンが追加され、撮影も終わりに近づいてきたのがわかった。日置高志は、みんなからは離れ、波打ち際に立った。一人で離れたつもりが、側にワーキング・ブーツの足を見て驚いた。カメラマンだった。
 右肩にかついだカメラがこちらに向いている。髭面の顔はカメラに隠れていてほとんど見えない。逞しい上体をシルバーのフライトマン・ジャンパーに包んでいる。 「わしを、撮るんかいな」
 カメラマンは左手でかれを制した。
 「そのまま、そのまま。フィルムは回ってない。ワン・カット撮ってるふりをしてくれ」
 「なんやね」
 「あんたとちょっと話がしたい。伴内、だな」
 「そや」
 「ひとに聞かれたくないから。ここで話す。立っててくれ。すぐ済む。鬼首からのメッセージだ。元気にやってるよ。やつは。またどこかで会おうと。それだけ伝えてほしい、ということだった」
 鬼首が……。かれは声を呑んだ。
 「あんたから、鬼やんに伝えることはないか、伴内」
 「待ってくれ……。やつはどこにいるんだ」
 「おっと、それはいえない。闘争継続中だ。百万人が挫けようと、われ一人行かん、だよ。近いうちにまた狼煙があがる」
 「なんでわしのことを? わざわざロケに連れ出したのか」
 テリーの誘いの意味がわかった。やつがこの会見のお膳立てをしたということだろうか。あの男には何の警戒も抱かなかったのに……。自分のまわりには陰謀が渦巻いている、だれ一人信頼できない、というファンタジーが急激に頭のなかを荒れ狂って、日置高志は絶望的な目まいに襲われる。
 「考えすぎだよ。カメラは腹のなかまで透視するから気をつけな。マルディグラによく来てるというから、そこで接触する予定だった。ここで会えたから、ついでに済ましたまでだ。鬼首に伝えることはあるのか」
 カメラマンの理詰めの言葉で、目まいは起こったときと同じように、瞬間でおさまる。そうだ、だれがおれのような男に手間隙のかかる罠など仕掛けるものか。
 「わしは……」
 「いえよ」
 「わしはぼちぼちや。ぼちぼちやっとるわ。そう伝えてくれ」
 カメラマンはカメラを降ろして手をさしだした。髭におおわれた顔には驚くほど柔和な目が光っていた。二人は芝居がかった握手を交わした。

 それからしばらくたって予定は終了し、クルーは帰途についた。また夜の単調なドライヴがつづき、来たときよりもずっと長いような感覚をもたらした。乗り心地の悪いマイクロバスでは、鈍い疲労が重なるばかりだった。冷えきっている足先からくるぶしまであがる痺れは少しもゆるまなかった。
 テリーはアケミと意気投合してしまったようで、となり合った席にぴったりと寄り添っていた。くぐもった忍び笑いが小鳥のさえずりのように聞こえてくる。
 意外なところからおくられてきた鬼首のメッセージに、日置高志は、不意をつかれ混乱していた。おれはやつを捜していたのだが、そしてその足跡すらつかんでいなかったのだが、やつはおれの居場所をとうに知っていたわけだ。伝言それ自体の意味は大したことではない。肝心なことは一つ、おれが何をしていようが、おれの行動は鬼首に知られている、ということだ。
 そしてその事実がおれに伝わったことを、少しあとになって、やつも確認するわけだ。やつは呼んでいる。合流するなら、来いと。いつでも歓迎する、と。
 おれはマイクロバスの振動に不快に囚われ、疲労を重ねて時を刻む。そこから逃れることができない。
 夜中に出て、ほぼ丸一日たって帰ってきたのだ。
 鈍い疲れでしびれた脳裏に、昨日あの男に告げられた言葉がぼんやりとよみがえってきた。秋田救援会。おれの二年七ヵ月の空白は、そこに関わって旋回しているというのか。
 招かれて誇らしいなどとは思えない。おれの現在などはがたがたと揺れのやまないマイクロバスに囚われているこの耐えがたさで象徴されて終わりだ。鬼首の伝言を受け取るのはすでに遅すぎたのかもしれない。あるいは受け取るべきでなかったのかもしれない。
 二つの因子が絡んで、日置高志の混乱をいっそう深いものにする。闇の向こうにつづいている国道をどこまでも南下しなければ帰れない。視界がさまざまの色に割れて飛び散った。闇は漆黒ではなく、赤、オレンジ、紫、グレイ、薄茶、黄、ピンクに分裂して、七色の輝きをもってかれを刺しつらぬいた。
 テリーとアケミが小鳥が餌をついばむような音をたててくちびるを吸いあっている。対向車のホーンが鋭く尾を引く。己れの信念を一日の撮影で燃焼しつくした監督がマイクロバスのエンジン音を上回るすさまじいイビキをかいて寝ている。
 おれは……。

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